奈良県にお詫びを言いたくて

旅行が好きで仕事をさぼっては頻繁に遠方に足を伸ばしています。ある日いつも買い物をするアウトドア専門店のNorth Face堀江店で店員をあいてに旅行話に花を咲かせていたところ、なぜ関西圏には訪れることをしないのか詰問されてしまいました。旅行とは飛行機で何時間も苦痛を味わい目的地にたどり着くことだと思い込んでいた自分の愚かさに気づかされ、慌てて調べてみると行かねばならない場所があるはあるはで、とっかかりとして奈良県、和歌山県、三重県にまたがる観光スポットの中から熊野古道ならびに大台ヶ原を制覇しようと旅行計画を立てることにしました。まずは宿屋探しだとインターネットで調べていますととある宿屋のホームページで気になる文言とであいました。

 
その文言とは.........
 
田舎懐石料理
 
【夕食料理】
まず最初に奈良県には海がございません・・・。
○○屋の自慢は海の魚を使わない山の幸、川の幸(あゆ、あまご、うなぎ、 川マス、わらび、ふき、ぜんまい、ごんぱち(いたどり)きのこ類、鹿肉、猪肉、 鴨、きじ)を使い、13品ないし15品を取り揃えた素朴な田舎会席料理は大変好評を得ています。
 
【朝食】
温泉茶粥を主にした田舎料理です。
 
当該旅館の料理の紹介文の一部です。
 
地元で入手可能な食材で精一杯客をもてなしたいとの誠実な思いが感じ取れます。また、日頃贅沢な食事を甘受している人々にはたまの田舎料理は新鮮で好まれるものとおもわれます。しかしながら私が気になりましたのはその文脈から満足な料理を客に提供できない「ひけめ」のような屈折した思いも受け取れるような気がしたからです。私にはどうしても「田舎」と「懐石」という言葉がマッチングしません。
 
海に面していない地域は当然ながら新鮮な海の幸が入手できず、ゆえに古より食が貧しいものであり、いかんしがたいものであります。その際たる地域のひとつが奈良県です。奈良といえば奈良漬けや柿の葉すしが脳裏にまっさきに浮かびますが、私は長野県や福岡県の奈良漬けの方がお気に入りで、柿の葉すしは私は好みですが保存食であり料理の範疇に属するのか疑問があります。また茶粥がもてはやされてはいますが、江戸 の初め、お茶の産地だった奈良では、上納したあとに残ったお茶で炊いたお粥が茶粥の始 まりだといわれており、また「お水取り」で知られる東大寺二月堂修二会の練行僧の食事に出 される「茶飯」が広まったともいわれています。どちらにしましても茶粥は元来貧粗なものであり、とても料理とはいえない代物であるいえます。ただしその質素さが寺院めぐりとイメージが合致し、観光客は喜んで食しているわけであり筆者がとやくいうことはありませんが、筆者はその地その地でしか味わえない料理を食すことが遠出する楽しみの必須条件となるがゆえにわざわざ足を運ぶほどの料理がない奈良には観光に出かける気にはなりません。
 
それでは魅了される食事処が奈良には一つもないのかと問われるとそうではありません。真っ当な日本料理屋、イタリア、フランス料理店が数多くあります。その一例として読者は奈良町にある蕎麦屋「玄」をご存知でしょうか。店構えには風情があり、素晴らしい「芸術的な」お蕎麦を供される日本有数のお蕎麦屋さんです。それでは何が問題なのか? 問題はこれらの素晴らしい料理は実は奈良以外でも味わうことができるからです。くどいようですが、奈良に行かねば味わえないような美食がないことが問題なのです。
 
そうです。そのことが問題だと思っていました。
 
......................ところが先日、奈良在住の知人が突然当社に現れ、粗末なものだがといいつつ和菓子を手渡されました。当人は真剣な顔つきで、「すぐに食べろ」と脅迫めいた口調で開封を促してくるため、仕方なく会社を早退し、自宅に戻り家内といただくことにしました。自宅で開封しましたところ中にはきちんと整列しながら鎮座している10本の串団子があり、1本の竹串には団子が5個刺されており、きな粉がただまぶされている見た目はシンプルな「きな粉団子」でした。早速一口いただくと「仰天」しました。たかがきな粉団子にこれほどの深い味わいが秘められておろうとは.......!!!! 無我夢中で家内と3本ずついただき「はっと」我に返り、その所要時間はおそらく30秒程度だと思われますが、全部たいらげるにはもったいないと気づき、次の日に残りをいただくことに決め、4本大事にとっておきました。
 
翌日は土曜日だったので昼食後楽しみに残しておいたきな粉団子をいただくこととなりました。気持ちの高ぶりとともにまずは一口。が〜〜〜〜ん.....そのときの驚きはどのように表現したらよいのか............。初めてホラー映画の「エクソシスト(The Exorcist)」を観たときに、そのふくよかで可愛いリンダ・ブレアが悪霊に取り憑かれ、おぞましい姿に変貌し、突然ベッドの上でその首が360度回転した時にその恐怖のあまり映画館の座席から飛び上がったことが記憶に刻まれてしまって今でもそのことがトラウマとして残っていますが、そのトラウマが全身を苛むほどの驚きといえましょう。あまりの味の劣化の激しさに家内と私の間に永き沈黙が続き息づかいだけがなぜか大きく聞こえたのは気のせいかもしれません。ちょっと大げさな表現になってしまいましたが、前日いただいたきな粉団子とは似て非なる凡庸なきな粉団子が目の前に横たわっていました。
 
この現象は私たち夫婦に筒井康隆がいうところの「うろがくる」、心理学でいうところのゲシュタルト崩壊を生じさせるに充分な出来事でした。フッサールの現象学が示す「意識」と「対象」が常に相関関係にあるとするならば、「意識」である私が最初に食した際のあまりの感動に本来以上の虚構にもとづく強い美化意識が芽生えてしまったのか、あるいは「対象」であるきな粉団子が本当に一晩でこれほどの激しい変化を見せたことに「意識」が戸惑うことになったのか。またはメルロー=ポンティの現象学がいうところの「記号」である言語による「きな粉団子」という共有認識から逸脱した味覚の衝撃に心的にカオスが渦巻いたのが一晩で揺れ起こしが発生し、「意識」が記号で認識していた「きな粉団子」であると自覚することで平静を取り戻そうとしたのか。この謎を解明するには現象学が批判した論理実証主義の手法を採用すべきではないのか? 簡単にいえば意識に生じた混乱を排除するには学術本を引っ張りだすより手っ取り早くきな粉団子を製造しているお店に行ってみるのが最善ではないのか?

幸い翌日は日曜日だったので、朝早く家内とお店に出かけることにしました。その日は快晴で絶好のドライブ日和です。ナビにはお店の位置をバッチリ入力したので道に迷う心配もありません。そうです。心配などみじんもないと信じていました。鼻歌まじりのドライブのはずでした.........。ところがお店に近づきますと、田んぼが広がってきており、途中の道は徐々に細くなり、あぜ道となり、右に曲がればよいのか、左なのか、真っ直ぐに進むべきか、ナビは混乱の極地に陥りわけのわからないことを口走り、ラピュリンスの迷宮という言葉が頭脳をよぎり、そのうえよりによって対向車が来れば譲り合わなければならず身動きができない状況にたまりかねて、「団子屋は寺社の前に店をだすべきだろう。なぜ春日大社や大仏殿や法隆寺の前などのわかりやすいところに店をださないのだ」と怒鳴りだす始末。隣の助手席を見ると家内は「我関せず」と涼しい顔。怒りが頂点に達する直前、家内がポツッと「あなた今お店通り過ぎたわよ」と言うのでバックしてみると、ただ「御だんご」と書かれた何の変哲もない外観のお店であることすらわからない団子屋がありました。怒りというものは徐々に蓄積し頂点を迎えるものだが、冷静さは取り戻すのに一瞬だということがいつも不思議だなと感じてはいますが、何もなかったがごとくまずは無事到着。

店内に入ると、外観と同じくこれまた和菓子屋らしくない飾り気のない質素なお店です。朝早くに到着したためか、お店に人影はなく、そのためにお店の様子を落ち着いて眺めることができました。テーブル等はなく、長椅子があるだけです。ショーケースらしきものもなく、御だんごも陳列されておりません。ただ白壁に店主の言葉が飾ってありました。
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角がとれてまん丸くしかも一本筋をとおす
こんな人生でありたいと願い乍ら心をこめて丸め一本一本丹精に串さしいたしております。
だんご理屈でしょうか
よろしくご賞味くださいませ
店主啓白@御だんご
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短い言葉ですが、ご主人の気持ちが込められ、来客にほのぼのとした清楚感を与えます。
 
落ち着きを取り戻し早速御だんごを注文してみます。機械らしき設備はなく、ただ擂り粉木のような気の棒が数本と漆塗りのような木製のボールが2つあるだけの殺風景な厨房で二人の女性が黙々と串に御だんごを刺し、それを蜜にひたしきな粉をまぶす作業をこなしています。たまらず店内で1本いただきました。柔らかさと弾力の調和した食感、やさしい甘さの蜜の味わい、国産の大豆を炭火で煎ったというきな粉のあふれるばかりの香り、おのおのが主体でありながら主張しすぎず三位一体となることでさらに個々の魅力を引き出し合う素朴で奥深い素晴らしい味わいです。味わいながら遠路はるばる来ることになった謎も解明できた気がします。「日持ちがしない」というより「時間もちがしない」理由としては秘伝と言われる蜜を団子にからめてきな粉をまぶすことでこの蜜が時間とともに「悪さ」をしているようです。このことはもちろんすぐにわかることです。ただこのことだけではあの凄まじい味の劣化の原因ではとは言い切れません。お店でできたてをいただくことでわかったことがあります。このお店では天然の風味を生かすために添加物、着色料、合成保存料はもちろん一切使用されておりません。だから日持ちがしませんではありません。食した時に思ったのですが、どうも砂糖を使用していないようです。一般的な御だんごは砂糖を20%前後使用されることがあります。理由としては甘さを出すことがあるでしょうが、実は砂糖は保存料の代わりに使用されていることが多々あります。こちらの御だんごの素朴な甘さ、きな粉の上質な甘さ、蜜の気品のある甘さは日頃接している砂糖の甘さとは距離を置くものです。私の独断的な推察でしかありませんが、砂糖すら使用しないことがあの「激変」の主たる原因だと思われます。読者の方々も奈良県にお寄りの際は是非共こちらのきな粉団子をご賞味いただき、私の推察が正しいかご判断いただければ幸いです。
 
このブログの趣旨は奈良県の方々にお詫びをしたいがためです。料理ではありませんが、奈良は訪れねば味わえない素晴らしい和菓子の宝庫だとわかりました。<申し訳ありませんでした...。> これからは機会があれば散策にお伺いさせていただきます。
 
おっと肝心なことを忘れるところでした。このお店の名前は「扇屋」さんで、五位堂にあります。